AIに仕事を奪われたら問題なのか

近い将来、多くの仕事はAIに取って代わられるから、AIにできないような仕事ができる能力を身に付けないといけない、という主張をよく目にするようになった。

もちろん、そういう心掛けはとてもいいことだと思うし、AIにできないことができる人間であれば重宝されるとは思う。

ただ、個人的には何となく違和感を覚えることも多いのである。

 

そもそも、人間は便利な社会を求めて、自分は楽をしたいから、いろいろな仕事を機械化し、自動化してきた。

だから、大前提として、AIがいろいろなことを人間の代わりにやってくれることはありがたいことであり、助かることのはずである。

特に日本などは、少子高齢化が進んで深刻な労働力不足に悩まされているのだから、できることなら何もかも機械に任せてしまって、AIを最大限活用するのがいいと思うのである。

 

そういうときに、AIの進化に怯えるような態度を取らないといけなくなるような社会は、どこか根本的に狂っているというか、間違っているのではないかという思いが漠然とある。

AIが仕事を奪うとして、それ自体は悦ぶべきことである。

問題なのは、仕事を奪われた人間が生きていけないという社会の仕組みの方にあるのではないか。

 

例えば年金を考える。

人は誰でも老いる。

老いれば能力が下がることは避けられず、仕事における生産性は落ちる。

じゃあ、働けなくなったら死んでよ、という社会もありうるし、人間社会も昔はそういう時代があった。

人間以外に目を向ければ、多くの動物社会において、自力で生きていくことができなくなった時点で死を強要されることが多いと思う。

もし、「人は誰でも老いる」という仮定がなかったら、年金制度なんて生まれなかったと思う。

「自分も(若くして死ななければ)いつかは老いて苦労する」という想像ができるから、年金制度のような富の再分配制度が成り立つ。

 

働けない人というのは、老人以外にもいろいろ種類がある。

ただ、「誰もがなる」という状況以外は、理解されづらく、冷遇されやすい。

特殊な病気、特殊な障碍、特殊な生活環境に苦しむ人たちは、大衆の想像力の欠如により、理解されないという理由で、充分な支援を受けられない。

 

AIが進化して、多くの人々の仕事が奪われるというのは、初期の段階では、特殊な病気に悩む人が増えることと似ている気がする。

つまり、苦しむのは仕事を奪われた一部の人だけということである。

それがさらに進むと、老人が増えるという状況と似てくる。

言い換えると、誰もが仕事を奪われる。

おそらく、この「誰もが奪われる」段階まで行けば、社会の制度が追い付いてきて、仕事を奪われることは何の問題もなくなるように思われる。

それは別に恥じることではなく、全員が同じ状況だからだ。

しかし、過渡期、一部の人だけが仕事を奪われるという状況は、全体の理解が追い付かないため、仕事を奪われた一部の人は苦しむことになるものと思われる。

 

ということは、AIによって仕事が奪われることによる苦痛を減らすためには、過渡期の状態をなるべく一瞬で通り過ぎることに尽きるのではないだろうか。

 

極論すると、AIによって仕事を奪われるということの問題の本質は、差別とかなり近いところにあるのではないかというのが今の自分がぼんやり感じていることである。

 

他にもいろいろ思うことがあるので、もう少し考えて次回以降に書いてみたい。