自閉症スペクトラム孤立型:思い当たること(その3)

想像力の欠如というのは、実はあまり当て嵌まらない。変わったことを考えるとか、変なことを言う、とはよく言われる。小説で言えば安部公房星新一など奇抜な発想のものが好きで、自分も趣味で小説を書く。好みの範囲は狭く、幅広い想像力を持っているかと問われれば、答えはNoかもしれない。しかし、人並みの想像力は持ち合わせているつもりだ。(他人の想像力を推し測るのは難しいので、もしかすると自分の想像力が周囲の人々と較べて圧倒的に劣っているということに自分が気付いていないだけという可能性はありうる。一方で、自称孤立型アスペルガー症候群の人々の書いた文章を読んでみても、彼らが想像力を持っていないとは思えないので、想像力の欠如は必ずしも連動して現れるものではないのかもしれない。連想の仕方が個性的だということなら、納得する。)
僕のコミュニケーション能力は非常に限られていて、多くの人からは相手にされないが、数学科出身者からだけは理解されることが多い。(僕は数学科出身ではない。)おそらく、合理的説明に理解を示してくれるのが数学科出身者なのだ。残念ながら、数学科出身者の世間に占める割合は高くない。全人類が数学科出身者だったらいいのに。
自分ルールを持っているというのは確かにそう。他者から理解はされないけれど、きちんと理由があるし、譲れない。理解されるかどうかは大きな問題ではない。話をきちんと聞いてくれる人は、理解を示してくれることが多い。納得できないとやらないというのもそう。
普段は無口だけれども、親しい人に対しては饒舌になるというのもそう。
マルチタスクが苦手というのも当て嵌まる。
短時間かつ限られた情報で判断しないといけない医者の判断より、時間を掛けて多くの情報を使って自分が判断のする方が合理的だとか思う。
指示の解釈が我流というのもそうで、我流の判断はだいたい常識から外れるので、具体的な指示を出さないと駄目だねと周囲には思われる。認識がズレているだけであって、間違っているわけではないのだけれど。
いろいろ調べていると、自分は、孤立型と受動型と半々かもしれない。昔は受動型で、今は孤立型に変わりつつある気がする。小学生から中学生くらいに掛けて、は積極奇異型だったかもしれない。
自分に無理を強いることが多いのは事実。むしろ周囲の人間が自分自身に対してやたらと甘いのが許せない。

自閉症スペクトラム孤立型:思い当たること(その2)

昔から、自分はアスペルガー症候群かもしれない、という思いはあった。ただ、僕が子供の頃はまだインターネットが今ほどに発達しておらず、情報収集はそれほど簡単ではなかった。それに、アスペルガー症候群の説明に納得できる部分もあれば、納得できない部分もあった。今も、自閉症スペクトラム全般の説明には自分と合わないところも多いと感じる。しかし、孤立型の説明は、ほぼ完璧に自分と合致する。分類はたぶん間違いないだろう。あとは、どういう脳の状況でそういう症状が出ているのかがわかると、気持ちはすっきりすると思う。
僕の場合、勉強はできる方だったので、脳の機能が周囲に劣っているという実感はあまりない。あくまで個性だと思っている。しかし、この個性が生きるうえで多くの困難を引き起こしたことは事実で、そういう意味では確かに障碍だと思う。
今の職場は、比較的自分にとって居心地がいい。それでふと、チームメンバーのことを考えてみたら、メンバーの多くが自閉症スペクトラムの傾向を持っているように思えてきた。それでも、それなりにやっている。環境次第なのだなということを強く感じる。進化や絶滅も、環境に対しての有利不利で決まるのだから、当然と言えば当然かもしれない。
環境と言えば、自分にとって一番居心地がよかったのは、大学院生のときの研究室だった。同期が六人いて、一人は鬱病になって、もう一人も心を病み掛けていたので、おそらく一般的にはあんまりホワイトな環境ではなかったと思う。でも、個人的には人生で一番楽しかった時期である。どういう環境が居心地が好いのかは、個人ごとに違う。
一人でもいいんだ、自分の時間を持っていてもいいのだと自分なりに納得できたのは、たぶん、大学を卒業する頃になってからだったと思う。友だちがいないから予定が空いていて一人で過ごしているわけではなく、自分が一人でいたいから一人でいるのだとようやく思うことができるようになった。ただ、今でも、一人で過ごす時間を「忙しい」とか「既に予定がある」とか他人に説明するのは、どうにもわかってもらえないことが多くて悲しい。世の中には、自分一人で過ごす時間ならいくらでも調整できるから忙しくないはずだと考える人が多い。
「休日に何をしているの?」というような質問にも返答に困る。自分の中では答えがある。でも、その答えを他人に対して説明するのはとても難しいし、理解してもらえる可能性はほぼゼロだ。だから、だいたい曖昧に答えを濁す。結局、「よくわからない人」になっていく。(何人かに、「仙人みたいだ」と言われた。)
集中を邪魔されると苛立つというのもまさにその通り。さすがにキレたりはしないが、すごくストレスである。合理的な説明をしても納得してもらえないときもそう。子供の頃、母親に対して、きちんと理由を説明しても納得してもらえないときは、なぜわかってくれないのかすごく不思議だった。
他人の気持ちはよくわからない。でも、パターン分析は得意なので、ある程度一緒に時間を過ごせば、その人の考え方のパターンを把握して、それなりに付き合えるようになる。逆に、初めて会うときや、多人数と同時に会うときは、ほとんど無力だ。親しい人たちとの飲み会とかは好きだが、初対面の人との飲み会とかは苦行でしかない。分析をしようと思っても、人数が多いと追いつかない。一対一の会話のときは、基本的に相手を分析対象として見て、分析を楽しむ感じになる。

追記自閉症スペクトラムアスペルガー症候群を混同していてうまく理解していないかもしれない。もう少し勉強が必要そうだ。

自閉症スペクトラム孤立型:思い当たること(その1)

しばらく前に、INTPの説明が自分にとって非常に納得のいくものであると感じた。最近、自閉症スペクトラムの孤立型の説明を読んで、こちらの方がもっと的確に自分のことを説明してくれていると思った。自分と似たような苦労をしている人たちが他にもいるとわかって安心したし、自分の特性をより客観的に表現してくれている気がして、少しうれしくなった。自分という存在を別の角度から理解できるというのは心地よいことだ。
僕自身は、自分のことを、圧倒的少数派であると常々思ってきた。趣味や考え方の合う人とはほとんど出会えていない。別に幼い頃は孤立志向ではなかった。普通に友だちと楽しく過ごしたかった。でも、友だちと一緒にいて楽しいことはあまりなかった。自分が楽しいと思うことをやると友だちはつまらなさそうにしていたし、友だちが楽しいと思っているらしい遊びは僕にとって全く興味の湧かないものだった。それでも、孤立しているのは見栄えがよくない。自分としては、一人で本を読んでいる方が気楽だったけれども、それだと親に心配を掛けると思った。無理に、見せかけだけでもいいから友だちを作ろうと努力した。その努力は全く実らなかった。高校生になってからは、友だちを作る努力を放棄した。淋しさはあったが、気楽だった。高校生の頃に同じ部活に入っていた友人とは、別に特別仲がよいわけでもなく、一緒にいても大して楽しくなかったが、それから十年以上経過した今もときどき会って話をする。
多数決は昔から嫌いだった。筋が通っていなくても賛成する人数が多いから採用するというのは思考の放棄であり、数の暴力だと思った。それが当たり前のように行われるというのは恐ろしいことだと思った。僕は幼い頃から自然科学が好きだった。そこは唯一、多数決ではなく理屈でものごとが決まる世界だと思えた。人間の思惑で結果が変わるような議論は信頼できないと思った。誰が何と言おうと正しいものは正しいはずだ。それで、理科や算数が好きになった。しかし、大人になった今は、自然科学や数学であっても、そう単純に割りきれるものではないかもしれないとは思う。
自分たちが少数派なのは仕方がない。通訳が必要になるのもその通りだ。しかし、通訳の労を負うのが常に少数派なのはつらいところだ。コミュニケーション能力というのは、どれだけ同類が多いか、自分が多数派に属しているのかどうかを測る基準ではなく、異なる考え方を持つ人、自分とは違う人と意思疎通する能力として定義すべきだ。そうすれば、コミュニケーション能力が低いとされている人たちの中にも、実はただ同類が少ないだけという人がかなりいるということがわかると思う。

学習メモ:群集理論と非平衡共存説

今日勉強した群集理論と非平衡共存説の自分なりの理解をメモしておく。十年以上前の教科書なので内容は既に古くなっているかもしれない。

資源の需要と供給がほぼ釣り合った平衡状態にあり、ニッチを分け合っているから競争排除が避けられていると考えるのが群集理論。

環境変動によって個体群の密度は低く抑えられていて、種間競争は働いていないと考えるのが非平衡共存説。

ポイントは、資源の需要と供給の比が1:1に近いのか、供給の方が多いのか、というところ。イメージとしては、資源というのを仕事のポストだと思うと、ポストが少ししかないスポーツ選手とか研究者とかは平衡状態に達しているので競争が激しく、農業とかITとかは非平衡なのかなぁとか思ってみたり。

捕食者が競争排除を防いでいるというのは、イメージで言うと、過労死が多発する職業はいっつも人手不足で競争は起きないとか、そんな感じかなぁと。

まぁ、でも、これだと、種間競争の話を個人の話に置き換えているから、的外れな例えなのかもしれない。種というのを、ある能力を持った人、みたいに置き換えて考えれば、多少はマシになるかな。

長期休暇が欲しい

なぜ、日本の企業では数か月単位の長期休暇制度がないのだろうかというのをずっと不思議に思っている。誰だって休みたいだろうから、長期休暇制度ができればみんなうれしいと思うのに。自営業とか、従業員が数人単位の会社であれば無理かもしれないけれど、百人程度の会社だったら可能ではないかと思うのに。

育児休暇制度が成り立つ以上、長期休暇制度が成り立たないはずはないと思う。育児だけは休暇理由として認められ、他は駄目というのは、個人的にはおかしな話だと感じる。価値観は人それぞれのはず。

趣味をするにしても、旅行をするにしても、数か月あればいろいろなことができる。消費だって活性化するだろう。定年を越えても働くことが普通になりつつある今、社会人になってから学び直すことも重要で、そのためにも長期の休暇はあった方がいい。

人生における空白期間を嫌う人がいる。自分は大学生のとき一年留年したので、ある意味そこに空白期間がある。自分としては、他学科の授業を受けたりしていて、それは価値のある一年間だったので、無駄ではなかったと思っているが、留年を好意的に捉えてくれる人はまずいない。別に自分の失敗を肯定しようというわけではないけど、もうちょっと気楽に生きたっていいじゃないかと思う。用意された型通りに生きなくっても。

働くのにも疲れてきて、そろそろもう一度空白期間が欲しいなと思っている今日この頃である。別に、働くために生きているわけじゃないのだ。楽しく生きるために働いているはずなのに、楽しく生きるという本来の目的の方が疎かになってしまっていて悲しい。

育児放棄

昔買った生物学の教科書を読み直していて、「親による子供の保護は、社会性への進化の第一歩」というような意味合いの記述が気になった。

現代社会においては、育児放棄は批難されるべき行為であり、場合によっては犯罪にもなる。ただ、日本においても昔は子供を間引いて捨てたり売ったりすることが普通に行われていた時期もあり、何が悪くて何が善いかは時代の常識に依存する。現代日本では少子高齢化が進んでいるので、子供の価値が相対的に上がって、育児放棄がより強く批難されるようになったのだと思う。

そんなことを思うと、いくつか気になることがある。一つは、仮に今後、子供が増えて、子供の価値が相対的に下がった場合、再び子供を間引いたりするような時代が来るのかどうかということ。もう一つは、そもそも人間が、子供を産みっぱなしにすることを普通とするような生き物だったらどんな社会があったのだろうか、あるいは社会自体存在しえないものなのか、ということである。

子供が増える時代がすぐに来るとは思わないけれども、個人的には、そういう時代が来れば、人間はまた平気に子供を間引いたりするのだろうなという気がする。人間というのはすごく合理的で打算的な生き物なので、価値の下がったものに労力を割くとは思えない。

人間の場合、赤ん坊は一人では生きていけない未熟な状態で生まれてくるので、今のままの生物学的構造のままでは、産みっぱなしが普通という状況は考えづらいけれども、仮想的に未熟でない状態で生まれてきたら、産みっぱなしの社会というのが成立するのかどうか、想像してみるのは面白い気がする。

あとは、今後科学技術が進歩して、未熟に生まれてきても世話をする必要がない、機械が代わりに世話をしてくれるというような社会になったとき、どうなるのか考えてみるのも楽しい。

別に、育児放棄に賛成する気はさらさらないけれども、「育児放棄は悪である」という論調は、何となく身勝手で理由に乏しく論理的でないような気がした。社会がそう言っているから、多数派に合わせておけみたいなのはどうしても好きになれない。

ついでに言うと、民主主義の基本は多数決なので、老人が増えると老人有利の仕組みが通りやすくなる。実際、定年が延びて給料をもらいながら年金を受給している人とかを見ると、若手(でもないけど)からすると不公平感がある。そういう人が優秀ならまだ我慢もするが、威張っているだけで半分ボケていて仕事も全くできなかったりするのでたちが悪い。そのくせ顔は広いので、そういう人の意見は通りやすいのである。もう、日本のシニア世代を働き盛り世代で支えるのは無理だから、自分たちで働いてもらうしかないけど、肩書きや立場を与えるのではなく実質的に働いてもらわないと何の解決にもならない。そこが履き違えられないといいなとは思うが、まぁたぶん、無理だろう。

みんなで決めたルールだから従いましょうと言うけれど、そのルールの決め方自体、非常に不公平なものだということは意識していたいものだと思う。

子供の頃は、社会常識みたいなものを無条件に信じてしまっていたので、姥捨て山のような話は残酷で人間らしくないと思ったりもしたものだが、今になってみるとあれは合理的な解決策であり見習うべきところも大いにあるなという考えに変わった。

弱者を助けるのはご立派なことだとは思うけれども、そういうのは基本的に余裕がないとできないということを正しく認識しないといけない。今の日本に、弱者を助けている余裕があるとは思えない。真面目に働いている人よりも生活保護受給者の方が快適な暮らしをしていたり、年金受給者の方が優雅な暮らしをしていたりというのは、根本的に不合理であり、いずれ破綻する仕組みだと思う。

理不尽と共感

例えば上司から理不尽な仕事を振られたとき。自分にとってベターなのは、何とか合理的な理由を付けてその仕事を回避することであり、自分の不幸を避けることだ。

しかし、回避することがそれなりに困難な場合、さらに努力して回避策を模索することよりも、死なば諸共で憎い人を道連れにすることを考えがちである。

そんなネガティブな人間は自分くらいなものかもしれないが、周囲を見た感じでは同じような考え方をする人はそれなりに多いようにも思う。

こういう、死ぬにしても一矢報いてやる、みたいな気持ちは、合理的に考えれば考えるほど損はしてもメリットは何もないように思える。進化の過程でそういう感情が生じる仕組みを得たのだとしたら、やっぱり、道連れにすることで自分の仲間を危険から遠ざけるような意味があったのだろうか。

ついでに今、自律神経が狂っているのかわからないけど、体調があまり良くない。精神的ストレスで自律神経が狂って体調が悪くなるという仕組みも、得する要素は全くないように思える。これはいったいなぜ生じたのか、興味深いところである。

最近、「悪」の定義に興味を持って、正義とか、共感とか、サイコパスとかについてあれこれ調べている。まだよくわかっていないけれども、ちょっとずつサイコパスへの興味が増している。

共感と合理的な思考というのは、相反する場合が多い。結局はうまい使い分けが必要なのだろうが、共感だけだと馬鹿だと言われ、合理的に生きると冷たいとか人間らしくないとか心が無いとか言われる。でも、どちらかを選ばないと結局何も行動できない。何というか、最初から理不尽な構造になっているよなと思う。

組織とか人間関係とか、本当によくわからないし、不思議なものだと思う。苛々して何も考えられないので、お酒飲んで音楽ばっかり聴いている。明日、仕事行きたくないな。