自閉症スペクトラム孤立型:思い当たること(その1)

しばらく前に、INTPの説明が自分にとって非常に納得のいくものであると感じた。最近、自閉症スペクトラムの孤立型の説明を読んで、こちらの方がもっと的確に自分のことを説明してくれていると思った。自分と似たような苦労をしている人たちが他にもいるとわかって安心したし、自分の特性をより客観的に表現してくれている気がして、少しうれしくなった。自分という存在を別の角度から理解できるというのは心地よいことだ。
僕自身は、自分のことを、圧倒的少数派であると常々思ってきた。趣味や考え方の合う人とはほとんど出会えていない。別に幼い頃は孤立志向ではなかった。普通に友だちと楽しく過ごしたかった。でも、友だちと一緒にいて楽しいことはあまりなかった。自分が楽しいと思うことをやると友だちはつまらなさそうにしていたし、友だちが楽しいと思っているらしい遊びは僕にとって全く興味の湧かないものだった。それでも、孤立しているのは見栄えがよくない。自分としては、一人で本を読んでいる方が気楽だったけれども、それだと親に心配を掛けると思った。無理に、見せかけだけでもいいから友だちを作ろうと努力した。その努力は全く実らなかった。高校生になってからは、友だちを作る努力を放棄した。淋しさはあったが、気楽だった。高校生の頃に同じ部活に入っていた友人とは、別に特別仲がよいわけでもなく、一緒にいても大して楽しくなかったが、それから十年以上経過した今もときどき会って話をする。
多数決は昔から嫌いだった。筋が通っていなくても賛成する人数が多いから採用するというのは思考の放棄であり、数の暴力だと思った。それが当たり前のように行われるというのは恐ろしいことだと思った。僕は幼い頃から自然科学が好きだった。そこは唯一、多数決ではなく理屈でものごとが決まる世界だと思えた。人間の思惑で結果が変わるような議論は信頼できないと思った。誰が何と言おうと正しいものは正しいはずだ。それで、理科や算数が好きになった。しかし、大人になった今は、自然科学や数学であっても、そう単純に割りきれるものではないかもしれないとは思う。
自分たちが少数派なのは仕方がない。通訳が必要になるのもその通りだ。しかし、通訳の労を負うのが常に少数派なのはつらいところだ。コミュニケーション能力というのは、どれだけ同類が多いか、自分が多数派に属しているのかどうかを測る基準ではなく、異なる考え方を持つ人、自分とは違う人と意思疎通する能力として定義すべきだ。そうすれば、コミュニケーション能力が低いとされている人たちの中にも、実はただ同類が少ないだけという人がかなりいるということがわかると思う。