育児放棄

昔買った生物学の教科書を読み直していて、「親による子供の保護は、社会性への進化の第一歩」というような意味合いの記述が気になった。

現代社会においては、育児放棄は批難されるべき行為であり、場合によっては犯罪にもなる。ただ、日本においても昔は子供を間引いて捨てたり売ったりすることが普通に行われていた時期もあり、何が悪くて何が善いかは時代の常識に依存する。現代日本では少子高齢化が進んでいるので、子供の価値が相対的に上がって、育児放棄がより強く批難されるようになったのだと思う。

そんなことを思うと、いくつか気になることがある。一つは、仮に今後、子供が増えて、子供の価値が相対的に下がった場合、再び子供を間引いたりするような時代が来るのかどうかということ。もう一つは、そもそも人間が、子供を産みっぱなしにすることを普通とするような生き物だったらどんな社会があったのだろうか、あるいは社会自体存在しえないものなのか、ということである。

子供が増える時代がすぐに来るとは思わないけれども、個人的には、そういう時代が来れば、人間はまた平気に子供を間引いたりするのだろうなという気がする。人間というのはすごく合理的で打算的な生き物なので、価値の下がったものに労力を割くとは思えない。

人間の場合、赤ん坊は一人では生きていけない未熟な状態で生まれてくるので、今のままの生物学的構造のままでは、産みっぱなしが普通という状況は考えづらいけれども、仮想的に未熟でない状態で生まれてきたら、産みっぱなしの社会というのが成立するのかどうか、想像してみるのは面白い気がする。

あとは、今後科学技術が進歩して、未熟に生まれてきても世話をする必要がない、機械が代わりに世話をしてくれるというような社会になったとき、どうなるのか考えてみるのも楽しい。

別に、育児放棄に賛成する気はさらさらないけれども、「育児放棄は悪である」という論調は、何となく身勝手で理由に乏しく論理的でないような気がした。社会がそう言っているから、多数派に合わせておけみたいなのはどうしても好きになれない。

ついでに言うと、民主主義の基本は多数決なので、老人が増えると老人有利の仕組みが通りやすくなる。実際、定年が延びて給料をもらいながら年金を受給している人とかを見ると、若手(でもないけど)からすると不公平感がある。そういう人が優秀ならまだ我慢もするが、威張っているだけで半分ボケていて仕事も全くできなかったりするのでたちが悪い。そのくせ顔は広いので、そういう人の意見は通りやすいのである。もう、日本のシニア世代を働き盛り世代で支えるのは無理だから、自分たちで働いてもらうしかないけど、肩書きや立場を与えるのではなく実質的に働いてもらわないと何の解決にもならない。そこが履き違えられないといいなとは思うが、まぁたぶん、無理だろう。

みんなで決めたルールだから従いましょうと言うけれど、そのルールの決め方自体、非常に不公平なものだということは意識していたいものだと思う。

子供の頃は、社会常識みたいなものを無条件に信じてしまっていたので、姥捨て山のような話は残酷で人間らしくないと思ったりもしたものだが、今になってみるとあれは合理的な解決策であり見習うべきところも大いにあるなという考えに変わった。

弱者を助けるのはご立派なことだとは思うけれども、そういうのは基本的に余裕がないとできないということを正しく認識しないといけない。今の日本に、弱者を助けている余裕があるとは思えない。真面目に働いている人よりも生活保護受給者の方が快適な暮らしをしていたり、年金受給者の方が優雅な暮らしをしていたりというのは、根本的に不合理であり、いずれ破綻する仕組みだと思う。