自閉症スペクトラムについて思うこと

僕はおそらく、自閉症スペクトラムに該当すると思う。

今のところ、医療機関でそういう診断を受けたことはないし、これからも受診する予定はないので、社会的に診断名がつくことはないと思うが、これまでの人生を振り返ってみると、明らかに自閉症スペクトラムの症状に該当する。

友だちらしい友だちもできた例がない。

会話もたいてい続かない。

続くのは、目的がはっきりした議論の場合だけだ。

 

僕の興味は、二十歳くらいまでは宇宙と死に向いていた。

宇宙については、この世界の果てがどうなっているのかとか、この宇宙がどうやって始まったのかとかいう、幼少期に誰でも一度は疑問に思うこと、けれども普通は日常生活の中で気にしなくなっていくようなことを、ずっと気にし続けていた。

死については、別に死にたかったわけではなく、むしろ死を極度に恐れていた。

外に出たら車に轢かれるかもしれないから家にこもっていた方が安心ではないかと考えて、けれども家の中にいたって脳梗塞心筋梗塞で死ぬかもしれないと想像し、怯えていたりした。

 

僕は自分のことを社会不適合者だと自覚しているし、コミュ障だとも思っている。

ただ、一応普通に仕事をして、なんとか暮らしてはいる。

自分が障碍者かと言われると、正直なところ、悩ましい。

 

個人的には、健常者と障碍者の基準は曖昧なものだと思っている。

僕は目が悪いので、眼鏡がなかったら日常生活は送れない。

けれども、眼鏡があれば普通に暮らせる。

眼鏡がなくても家の中にいる分には困らない。

自閉症スペクトラムも似たようなもので、それが困難を引き起こすこともあるし、特に問題ない場合もある。

 

個人的には、自閉症スペクトラムは、何らかのパラメーターが平均から大きく外れている状態だと思っている。

仮にそのパラメーターが正規分布をしているとすると、平均値周辺のパラメーターを持った人が一番多いわけで、社会はその人たちに最適化されて構築される。

平均値からのズレが1シグマくらいだったら特に問題なく、2シグマくらいになると変わり者になり、3シグマくらいになると生活に困難を感じて障碍者になるというような感じではないだろうか。

要は、規格から外れてしまえば、性能がどうこう言われる前に不良品扱いされてしまうのだ。

それがどういうパラメーターかは、脳科学が進歩すればおいおい明らかになってくるものと思う。

 

価値観というのは、結局のところ、周囲と合わない限り社会的には認められない。

能力がズレていても価値観が一致していれば、まだ生活は楽だと思う。

価値観が大きくズレてしまうと、能力の高い低いとは関係なく、社会的生活は困難になってくる気がする。

偉人と言われる人や偉業を成し遂げた人たちが、IQで120くらいはある場合が多いけれど、それ以上高くても功績と相関は無いとか言われるのも、ズレが大きくなりすぎるとそもそもの価値観がズレてきてしまうことに要因があるのではないだろうか。

素晴らしい能力があって、難しいことを成し遂げても、そこに社会が価値を見い出さない限り、偉業と見なされることはない。

かといって、社会的な価値を押し付けられ、自分の価値観を封じなければならないのだとしたら、それは不幸なことだ。

平均的であるということは、無意識のうちに多くの味方を得られるという点で、幸福なことだと思う。

 

脳科学神経科学的な視点から、自閉症スペクトラムが具体的にどのようなパラメーターのズレから生じるのかが、早く解明されてほしいと思う。

 

日本は諸外国と較べて人種的に均一な民族で構成された国である。

常識がある程度共有され、阿吽の呼吸が要求される。

パラメーターの分布で言えば、分散の小さな尖った分布だろうと思う。

言い換えると、少しズレただけでとても生きにくい国である。

おそらく、多様な人種や常識の入り混じる国では、個性の幅に寛容であり、自閉症スペクトラムの人間も日本よりは生きやすいのではないかと勝手に想像する。

グローバル化が叫ばれて久しいが、多様な人種を集めることよりも先に、多様な価値観を認めるところから始めるべきなのになとずっと思ってきた。

見えにくい本質よりも見えやすい表面的な事象が注目されるのは仕方のないことではあるが、それでも少しずつ、本当の意味でのグローバル化が進んでいくことを願っている。

それによって、僕のような自閉症スペクトルの傾向がある人間にも、もう少し生きやすい社会になっていくことを期待する。