運転免許のこと
免許の更新に行ってきた。
無事故無違反だったので、30分間の交通安全動画を見るだけで終わり、それほど時間は掛からなかった。
交通安全動画の中では、ドライバーの責任についてあれこれ説明されていたが、交通事故というのは本当に恐ろしいものだと思う。
事故の被害者になってしまうことも恐ろしいし、加害者になってしまうことも恐ろしい。
日頃の注意で避けられるものも多いとは思うが、どうしようもない場合もありうる。
被害者を支援する制度は充実させないといけないが、過失のない加害者を悪人にしない仕組みも必要だと思う。
AIによる自動運転の研究開発が進んでいて、運転免許の在り方も変更を迫られる日が近付いている。
自動運転が、ドライバーに危ない運転をさせないように運転の自由度を制御し、ドライバーの責任を軽減するというのは、割といい方向性のように思う。
「誰が悪い」という論議ではなくて、「どうすれば同じような事故を起こさずに済むのか」という建設的な議論が進むようになってほしい。
誰が犯人なのか、誰が悪人なのか、という基準は、社会によって変わる。
一番直接的に関わり近くにいた人に責任を押し付けるだけで、問題が解決するわけではない。
道路の設計とか、車の設計とか、周辺の街灯や安全対策とか、いろいろな要因が絡んでいるはずで、わかりやすいところだけに責任を押し付けるのはおかしいと思う。
被害者の立場になれば、怒りをぶつける先というのも必要なのかもしれないが、その怒りを特定の一人に押し付けることは、やっぱり、納得がいかないものだ。
被害者支援が充実したからといって、悲しみは癒えないかもしれないし、怒りは収まらないのかもしれないが、どうにかしてうまい解決策を見つけていきたいものである。
仕事の愚痴
上司が部下に対して「もっと働け」と言うということは、働き者でない人がいるとその部署なり会社にとって損であるものと推測できる。
これは、見方を変えると、成果と報酬のバランスが悪いということである。
仮に、5の成果を出した人に対して4の報酬を与え、2の成果を出した人に対して3の報酬を与えるとする。
そうすると、5の成果を出す人が多い方が、会社にとってはプラスになる。
逆に、5の成果を出した人に対して6の報酬を与え、2の成果を出した人には1の報酬しか与えないのだとすれば、5の成果を出す人が多くても会社は得をしないので、「もっと働け」とは言わなくなるものと思われる。
言い換えれば、効率良く働く人が効率悪く働く人の分まで利益を出すことで成り立っている組織では、効率の良い人が組織にとって都合がいいから、褒められる。
つまり、効率良く働く人は損をしている。
成果を出す人には成果以上の報酬を与えるようにすれば、成果を出す人は自然と増える。
成果を出さない人からは逆に搾取してしまえばいい。
そうすれば、上司は部下に対して「そんなに働くな」と言うようになるだろう。
働かないでいてくれる人が多いほど、組織は得をするからだ。
本当は、そういう仕組みであるべきなのではないかなぁと最近よく思う。
効率よく働いていて、だからこそ定時で帰っている人に対して、「あなた余裕があるからもっと働いて」と言い、成果は出していないのにだらだら残業し続けている人に対しては、「忙しそうだね」と言うのは、どこかおかしいと思う。
効率よく働ける人に対してさらに詰め込むのは、経営側の視点からすれば利益を出すために当然の行為かもしれないが、労働者からすると気分の悪いことである。
追記:
社会常識がないので知らなかったが、外資系はそういう仕組みらしい。合理的でとても良いことだと思う。
自閉症スペクトラムについて思うこと
僕はおそらく、自閉症スペクトラムに該当すると思う。
今のところ、医療機関でそういう診断を受けたことはないし、これからも受診する予定はないので、社会的に診断名がつくことはないと思うが、これまでの人生を振り返ってみると、明らかに自閉症スペクトラムの症状に該当する。
友だちらしい友だちもできた例がない。
会話もたいてい続かない。
続くのは、目的がはっきりした議論の場合だけだ。
僕の興味は、二十歳くらいまでは宇宙と死に向いていた。
宇宙については、この世界の果てがどうなっているのかとか、この宇宙がどうやって始まったのかとかいう、幼少期に誰でも一度は疑問に思うこと、けれども普通は日常生活の中で気にしなくなっていくようなことを、ずっと気にし続けていた。
死については、別に死にたかったわけではなく、むしろ死を極度に恐れていた。
外に出たら車に轢かれるかもしれないから家にこもっていた方が安心ではないかと考えて、けれども家の中にいたって脳梗塞や心筋梗塞で死ぬかもしれないと想像し、怯えていたりした。
僕は自分のことを社会不適合者だと自覚しているし、コミュ障だとも思っている。
ただ、一応普通に仕事をして、なんとか暮らしてはいる。
自分が障碍者かと言われると、正直なところ、悩ましい。
個人的には、健常者と障碍者の基準は曖昧なものだと思っている。
僕は目が悪いので、眼鏡がなかったら日常生活は送れない。
けれども、眼鏡があれば普通に暮らせる。
眼鏡がなくても家の中にいる分には困らない。
自閉症スペクトラムも似たようなもので、それが困難を引き起こすこともあるし、特に問題ない場合もある。
個人的には、自閉症スペクトラムは、何らかのパラメーターが平均から大きく外れている状態だと思っている。
仮にそのパラメーターが正規分布をしているとすると、平均値周辺のパラメーターを持った人が一番多いわけで、社会はその人たちに最適化されて構築される。
平均値からのズレが1シグマくらいだったら特に問題なく、2シグマくらいになると変わり者になり、3シグマくらいになると生活に困難を感じて障碍者になるというような感じではないだろうか。
要は、規格から外れてしまえば、性能がどうこう言われる前に不良品扱いされてしまうのだ。
それがどういうパラメーターかは、脳科学が進歩すればおいおい明らかになってくるものと思う。
価値観というのは、結局のところ、周囲と合わない限り社会的には認められない。
能力がズレていても価値観が一致していれば、まだ生活は楽だと思う。
価値観が大きくズレてしまうと、能力の高い低いとは関係なく、社会的生活は困難になってくる気がする。
偉人と言われる人や偉業を成し遂げた人たちが、IQで120くらいはある場合が多いけれど、それ以上高くても功績と相関は無いとか言われるのも、ズレが大きくなりすぎるとそもそもの価値観がズレてきてしまうことに要因があるのではないだろうか。
素晴らしい能力があって、難しいことを成し遂げても、そこに社会が価値を見い出さない限り、偉業と見なされることはない。
かといって、社会的な価値を押し付けられ、自分の価値観を封じなければならないのだとしたら、それは不幸なことだ。
平均的であるということは、無意識のうちに多くの味方を得られるという点で、幸福なことだと思う。
脳科学、神経科学的な視点から、自閉症スペクトラムが具体的にどのようなパラメーターのズレから生じるのかが、早く解明されてほしいと思う。
日本は諸外国と較べて人種的に均一な民族で構成された国である。
常識がある程度共有され、阿吽の呼吸が要求される。
パラメーターの分布で言えば、分散の小さな尖った分布だろうと思う。
言い換えると、少しズレただけでとても生きにくい国である。
おそらく、多様な人種や常識の入り混じる国では、個性の幅に寛容であり、自閉症スペクトラムの人間も日本よりは生きやすいのではないかと勝手に想像する。
グローバル化が叫ばれて久しいが、多様な人種を集めることよりも先に、多様な価値観を認めるところから始めるべきなのになとずっと思ってきた。
見えにくい本質よりも見えやすい表面的な事象が注目されるのは仕方のないことではあるが、それでも少しずつ、本当の意味でのグローバル化が進んでいくことを願っている。
それによって、僕のような自閉症スペクトルの傾向がある人間にも、もう少し生きやすい社会になっていくことを期待する。
語学を勉強しなくてもいい時代に生まれたかった
AIというか、機械学習の技術が発展している。
機械翻訳は現在でもかなりいい線まで行っていると思うが、音声認識がまだいまいちで、機械が高品質な自動通訳をしてくれるというのが世間に普及するのはもう少し先かなと思う。
そういう時代が来れば、外国語学習の必要は(少なくともビジネス目的では)なくなるわけで、語学の苦手な自分としては早くそういう時代になってほしいものだと願っている。
ただ、少し嫌な予感もする。
例えば、「機械に翻訳を任せるのはけしからん。俺は生身の人間としか会話しない」みたいな人が一定数出てくるだろうなと思うのだ。
今だって、調べれば一瞬でわかるような知識を問う試験があちこちで行われている。
そんな試験をして何かの能力を測ったところで、意味はないのに、だ。
機械が賢くなっても多くの人間は馬鹿なので、社会はすぐには変わらない。
できる必要のないことを、無駄に強要するのはなくならないだろう。
そういう視点からすると、個人的にいろいろ不可解に思っていることもある。
例えば、速く走ること。
車に乗ればオリンピックメダリストより速く走ることができるのに、なぜ生身で競うのか。
個人的には意味不明である。
チェスなども、娯楽として楽しむのは別にいいけれど、機械に勝てないくせにプロがいるというのも変な話だと思う。
そういうことをあれこれ思うと、AIが仕事を奪うとか、奪わないとかいうのは、技術的に可能かどうかではなく、機械がそれをやることを人々が受け入れるかどうかにあるのだという気がしてくる。
「ここは人がやらないといけない」というのを決めてしまえば、その行為に価値がなくても、仕事はなくならない。
しかし、価値のない仕事はつまらないだろう。
AIにできないことをできる人間であれ、というのは、意見としてはとても正直で正しいと思うのだが、たぶん、そういう人が将来正当に評価されるとは思えない。
今の時代も同じだが、どうでもいいような「人間にしかできない仕事」をうまく得た者が評価されるのだろう。
変に未来を考えて努力をするよりも、好きなことをして生きた方がいいなと思ってしまう。
いっそのこと、人間の評価も機械に任せてしまった方が、(問題は多々あるだろうが)少なくとも人間任せよりは、ずっと公平だろうと思う。
AIに仕事を奪われたら問題なのか
近い将来、多くの仕事はAIに取って代わられるから、AIにできないような仕事ができる能力を身に付けないといけない、という主張をよく目にするようになった。
もちろん、そういう心掛けはとてもいいことだと思うし、AIにできないことができる人間であれば重宝されるとは思う。
ただ、個人的には何となく違和感を覚えることも多いのである。
そもそも、人間は便利な社会を求めて、自分は楽をしたいから、いろいろな仕事を機械化し、自動化してきた。
だから、大前提として、AIがいろいろなことを人間の代わりにやってくれることはありがたいことであり、助かることのはずである。
特に日本などは、少子高齢化が進んで深刻な労働力不足に悩まされているのだから、できることなら何もかも機械に任せてしまって、AIを最大限活用するのがいいと思うのである。
そういうときに、AIの進化に怯えるような態度を取らないといけなくなるような社会は、どこか根本的に狂っているというか、間違っているのではないかという思いが漠然とある。
AIが仕事を奪うとして、それ自体は悦ぶべきことである。
問題なのは、仕事を奪われた人間が生きていけないという社会の仕組みの方にあるのではないか。
例えば年金を考える。
人は誰でも老いる。
老いれば能力が下がることは避けられず、仕事における生産性は落ちる。
じゃあ、働けなくなったら死んでよ、という社会もありうるし、人間社会も昔はそういう時代があった。
人間以外に目を向ければ、多くの動物社会において、自力で生きていくことができなくなった時点で死を強要されることが多いと思う。
もし、「人は誰でも老いる」という仮定がなかったら、年金制度なんて生まれなかったと思う。
「自分も(若くして死ななければ)いつかは老いて苦労する」という想像ができるから、年金制度のような富の再分配制度が成り立つ。
働けない人というのは、老人以外にもいろいろ種類がある。
ただ、「誰もがなる」という状況以外は、理解されづらく、冷遇されやすい。
特殊な病気、特殊な障碍、特殊な生活環境に苦しむ人たちは、大衆の想像力の欠如により、理解されないという理由で、充分な支援を受けられない。
AIが進化して、多くの人々の仕事が奪われるというのは、初期の段階では、特殊な病気に悩む人が増えることと似ている気がする。
つまり、苦しむのは仕事を奪われた一部の人だけということである。
それがさらに進むと、老人が増えるという状況と似てくる。
言い換えると、誰もが仕事を奪われる。
おそらく、この「誰もが奪われる」段階まで行けば、社会の制度が追い付いてきて、仕事を奪われることは何の問題もなくなるように思われる。
それは別に恥じることではなく、全員が同じ状況だからだ。
しかし、過渡期、一部の人だけが仕事を奪われるという状況は、全体の理解が追い付かないため、仕事を奪われた一部の人は苦しむことになるものと思われる。
ということは、AIによって仕事が奪われることによる苦痛を減らすためには、過渡期の状態をなるべく一瞬で通り過ぎることに尽きるのではないだろうか。
極論すると、AIによって仕事を奪われるということの問題の本質は、差別とかなり近いところにあるのではないかというのが今の自分がぼんやり感じていることである。
他にもいろいろ思うことがあるので、もう少し考えて次回以降に書いてみたい。
INTPと教育環境
MBTI(Myers-Briggs Type Indicator)という性格検査を受けると、INTPタイプだと出た。
INTPタイプの説明は、自分に非常に合っていて、とても納得のいくものだった。
僕は勉強が好きな性格だと思う。
学生時代は物理を学んでいてとても楽しかったし、社会人になった今は地球科学や生物学を趣味で勉強していて、これも楽しい。
ただ、学校は大嫌いだった。
特に嫌いなのが宿題で、宿題という制度は意味不明だと今でも思っている。
本来、教育というものは、子供の能力を伸ばすために行うものであるべきだ。
子供のうちは、何が得意かわからないのだから、いろいろなものに挑戦する機会を与えるべきである。
しかし、宿題というのは自由な時間を奪い、挑戦する機会を奪う。
つまらないことに耐える能力を鍛えるのが教育の在り方だとは思いたくない。
僕は不真面目な学生で、あまり宿題をやらなかったので、よく怒られていた。
僕は勉強が嫌いだったわけではない。
むしろ勉強は好きで、自分の興味の向いた内容に関しては、誰よりも時間と労力を掛けて勉強してきた。
おかげでいつも時間が足りなかった。
好きなことを学ぶための時間を奪う宿題という存在が、嫌で嫌で堪らなかった。
今回、INTPの性格についての説明を読んでみて、過去の自分の不真面目を正当化してもらったようで、何となく心が軽くなった。
子供の頃に、自分がINTPタイプだということを知って、お前が悪いわけじゃないんだということを言ってもらえたら、もっと自由に生きられたのではないかという気がする。
確実に言えるのは、日本の教育はINTPタイプの人間にストレスしか与えないということだ。
そして、今この瞬間も、自分と同じINTPタイプの子供たちが、日本のつまらない教育システムの中で苦しんでいるのだと思うと、心が痛くなる。
そういう子供たちには、「学校なんて行かなくてもいいんだよ。好きなことを好きなように学んだ方が、結果として大人になってから役に立つんだから」と言ってあげたいが、そういうことを言える大人がどのくらいいるのか、怪しいものだ。
INTPタイプはだいたい全人口の3%くらいだというから、日本にも400万人くらいはいるわけである。
それだけ数がいながら、今の教育システムを変えることができないでいるというのは、悲しいことだが、今自分に何ができるのかを考えると、あまり打つ手を思い付かない。
少なくとも、自分に子供が生まれたら、その子には、その子に合った教育環境を提供したい。
ときどき、自分のクローンを育ててみたいと思うことがある。
自分であれば、自分と同じタイプの考え方の人間の考えることがおおよそわかる。
自分と同じタイプの人間がどういう環境を必要としているのかもわかるはずだ。
そういう最適な環境を与えたとき、自分と同じ素質を持った人間がどんなふうに成長するのか、観察してみたいものだと思うことがある。
もちろん、現実にそんなことをするつもりはないが、空想する分には割と楽しいテーマだと思う。
今は、自分と似たINTPタイプの友人が欲しいなと思っている。
忘備録の書き方
僕は忘れっぽい性格であり、メモ魔である。
基本的にアナログ人間で、手書きのメモを愛用している。
手書きのメモというのは現代においては相対的に不便なものであるが、良さもある。
例えばインクの滲みから、当時の状況を思い出すこともある。
手帳のページの折れ目が、何かの思い出につながっていたりする。
文字の崩れ具合から、当時の心境を思い出したり、字体の変化を眺めて楽しむこともできる。
そういう点は、手書きの良さだと思う。
欠点は、手帳自体がどこに行ったかわからなくなってしまうことが多々あることと、持ち運んでいるときに雨に濡れて過去のメモまで全てぐちゃぐちゃになってしまうことなどだろうか。
そういうわけで、手帳の代わりの忘備録としてブログを使ってみることにした。
これなら、ネットワーク環境下にあればどこでも過去の記録を振り返ることができるはずである。
忘備録の書き方というのはどのような形式が良いのだろうか。
基本的に自分向けなので、他人の目を気にした書き方をしようとは思わない。
しかし、未来の自分はほとんど他人のようなものである。
完全に独りよがりな書き方をすると、未来の自分にとってさえも意味不明になってしまう。
それでは忘備録の意味がないが、手書きのメモではそういうことがよくあった。
数年前のメモを見返して、いったい何のことやらさっぱりわからないということは多々ある。
そういうことはできるだけ避けたい。
幸いなことに、手書きよりもキーボード入力の方が単位時間当たりに入力できる文字は多く、まとまった文章を書きやすい。
従って、手書きのメモよりも未来の自分に優しい忘備録が書けるはずである。
書き方としては大きく二つあると思っていて、一つは、とにかく思い付いたことや考えたことを片っ端から書いていくという方法。
これは、おそらく情報量としては一番多く、考えていたときの勢いや雰囲気を残しやすいというメリットがある。
但し、整理不充分な状態で書くわけなので、情報の密度としては薄く、再利用しにくく次につなげにくいという欠点がある。
どちらかと言えばこれは日記的な書き方に近く、情報の再利用を意識した書き方というよりは、感傷に浸るための思い出の記録方法という感じがする。
もう一つは、考えを整理して、取捨選択をしたうえで書くという方法。
普通、誰か他人に対して文章を書く場合は、この方法を取るべきである。
但し、自分向けの忘備録というときに、この方法がベターかどうかは悩ましい。
情報の整理には時間も労力も掛かる。
忘備録として記録するというときには、いつか必要になるとわかっている情報を残すこともあれば、必要になるかどうかは今のところわからない情報を残すこともある。
何が必要になるかわからない状態で、情報を取捨選択してしまうのは、忘備録としてはあまりメリットにはならない気がする。
さらに、情報を整理する過程で勢いやニュアンスのようなものが失われてしまうこともある。
結果として、情報の密度は上がるかもしれないけれども、自分の考えが薄れた無味乾燥な要約しか残らず、しかも要約に時間が掛かり情報量が減ってしまうということもある。
そんなことを考えて、今のところの結論は、とりあえず整理せずに思い付きを書き散らしておいて、後から使いそうな情報は再度整理して書くというのがいいのかなというふうに思った。
考えたことを書くというのもあるけれど、書くことで考えが進むということもよくある。
そういうツールとしてブログを使っていけたらいいなぁと思っている。